劇場で観た者しか知らない。

イングロリアス・バスターズ」に登場する「ナチスを殺した映画」は劇場で観た者しか知らない。
観客(=ナチス)は全員死に、映画監督(=ユダヤ女)も、スタッフ(=黒人)も死んだ。
ナチスを殺した映画」が存在したことを知る者は生き残っていない。
ナチスを讃えた映画」が予定通り上映されたと人々は思うだろう。
ナチス殺しはバスターズ或いはランダ大佐が達成したと人々は思うだろう。

劇場にいなかった者は真実を知らない。
劇場にいた者だけが真実を獲得できた。

通常、映画は予定された映画が予定通りに上映されると思われている。
タランティーノはそうじゃないんだと信じている。
同じ映画だろうと、あの劇場あの回での鑑賞と、この劇場この回での鑑賞はまったく異なる体験だと信じている。
DVD鑑賞なんて観たことになんねぇーよ、と。



で、いきなりスケール小さくなって自分の話。
上映の機会に友人に声をかけたとき、「DVD貸してー。」とさらっといわれると、戸惑う。忙しいのだろうし、DVDででも観てくれることは感謝すべきことなのだろうが、それは作品にとって幸せなことではない。やはり劇場の空気感を吸い込んで観ることに価値があるんだと思う。
幾つかの映画祭に参加させてもらって、自分の映画が上映されているときの劇場の空気感を味わう喜びを知れたし、上映される場の性質によって、映画もまた表情を変えることを知った。上映される場によって、同じ作品なのにまったく別の作品に思える。いるはずの観客がいないかのように寒々しい空気が充満したこともあれば、笑顔で「いやぁ〜あんたバカだねぇ」といわれてるような温かい空気に包まれたこともある。
だから修了制作実習作品発表会の「牛乳王子」も、ひろしま映像展の「牛乳王子」も、ルナティック・ショートムービーフェスティバルの「牛乳王子」も、ショートピース!仙台短編映画祭の「牛乳王子」も、学生残酷映画祭の「牛乳王子」も、それぞれ異なった表情をしていた。この劇場のこの回でしか観れなかった映画の表情というのがあるのである。


だから上映の場を与えてくれた方には頭が下がる。

学生残酷映画祭は映画研究部が大学の部費で、部員みんなでわいわい運営しているのかと思っていたが、全然違った。主催の佐藤さんが基本的に一人で運営していたようだ。それも資金は自分持ち。他の部員からは「なんでそんなのやるの・・・」と敬遠され、スタッフを募集しても集まらず、孤独と闘いながら準備していたようです。読売新聞に取材されたら大学側は「そんな名前の映画祭とうちの大学を関連づけるのはよくない」と叱られたりさえしたというエピソードを耳にすると、胸が熱くなります。
佐藤さん自身も作品も制作してて、当初は上映することも考えていたのに、他の作品を優先するほど謙虚な方です。


学生残酷映画祭は「ホラーファンとホラーを観る」という行為が生み出す本当に幸福な空気を味わえて最高でした。